《 加茂 (京都府木津川市)
日本の 古代・中世・近世・近代 の全時代区分を駆け抜けた町







既に加茂訪問を予定している皆様へ

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 • あるいは、Faxなど紙での申込みは、案内人派遣申込書」をダウンロード
   (オンラインで申込みをする場合でも、いったん申込書に手書きしてみるのに便利です。) 

All roads lead to Kamo :
Touch and feel the Esprit of Kamo

加茂時代
▼ 以下の4つの画像から1つをクリックしてみてください! ▼ 

加茂へようこそ!

 私達 NPO法人「ふるさと案内・かも(愛称「ふるかも) は、皆様にふる里 加茂をご案内するなど活動をしています。案内活動以外にも、学校等への郷土学習支援や里山保全などの環境整備活動などもしています。)(ふるかも のご紹介は こちら▶

《加茂》 京都府の南端、木津川市内にあるこの中山間地域の小ぶりで落ち着いた木津川沿いの町、山裾に静かな里山息づく町。それは大阪や京都から快速電車で一気にたどり着いた加茂駅を降り立てば、誰もがすぐ感じ取ることのできる空気に違いありません。しかし、この小さな町は、日本のどこにもあるような、単にのどかで、ちょっぴり退屈かもしれない田舎町ではないのです。 

そう、加茂を訪れることは日本の歴史の各ページを訪れること。なぜなら、加茂は、日本の歴史、古代中世近世近代 の全時代区分を駆け抜けた町なのですから。例えば各々一例を挙げてみましょう (続きは右の˅をクリック)

古代の奈良時代、約1300年前、加茂は奈良の「平城京」から一時遷都されて日本の都だったことがあるのです。足掛け5年しか続かなかったこのミステリアスな首都は「恭仁(くに) 京」と呼ばれます。聖武天皇が玉座におられた大極殿跡を訪ねてみませんか。

中世加茂南部の「当尾(とうの)」地域には、国宝九体仏や浄土式庭園で名高い浄瑠璃寺や、森閑とした山寺の趣を色濃く漂わす岩船寺があり、その二寺を結ぶ山の小道のあちこちには、主に鎌倉期に彫られた石仏群が点綴するようにひっそり佇んでいます。身軽な装備でも可能な石仏巡りを楽しんでみませんか。

近世加茂は戦国武将、藤堂高虎の領地でしたが、彼は徳川幕府の威信をかけた大阪城の再建において、築城の名手として重要な役割を果たします。その工事の際使われた石垣の石は、加茂の大野山から切り出されて木津川水運により大阪まで搬送されたのです。そして、運ばれずに木津川川岸に残された幾つもの巨石は「残念石」として当時の名残を伝えています。あなたの手を残念石に置いてみませんか。

そして、近代となった明治時代、鉄道網が国有化・統合される以前の草創期、私鉄「関西(かんせい) 鉄道」は、加茂~奈良間を結ぶ「大仏鉄道線」の操業を開始しますが、この路線は僅か9年で廃線に追い込まれ「幻の大仏鉄道」と呼ばれるようになります。その鉄路のあったルートに残る鉄道遺構を巡ってみませんか。

そう、加茂を訪れることにより、日本の歴史のページを逍遥するため‥‥ 古代の人々の息遣いに触れるため‥‥ 中世の人々の信仰の声なき祈りを聞くため‥‥ 徳川の手になる大阪城改築の証人となるため‥‥ 明治の鉄道産業革命の活力を肌で感じるため‥‥ 等々、あなたは加茂において、日本のユニークで多様な歴史の1ページを紐解き、立ち会うことができるのです。

加茂へのアクセス

加茂は、大阪、京都、奈良の3都市から便利なハブの位置にあり、これらの都市からはJRの電車で来るのが最も一般的です。(奈良は至近、大阪からは快速で直通。もちろん京都からも便利!) また、自動車やバスの手段を使うことも可能です。以下に、主な加茂へのアクセスを紹介します:

▶鉄道で

Kamo Station JR加茂駅is the intersection point, which connects Electric train and Diesel one lines. Diesel train runs to Ninjya town, Onsen, Mountain area, Riverside town, etc.

◎JR鉄道による加茂駅までの所要時間

 大阪駅 ~ 加茂駅 1h 15m (「大和路快速 加茂行」利用)

 京都加茂駅  1h 10m  (「みやこ路快速」利用、木津駅乗換えで1駅、近鉄では精華町の新祝園駅でJR祝園駅に移動も可)

 奈良駅 ~ 加茂駅  18m 

 加茂駅 ~ 伊賀上野駅  35m (ディーゼル列車)

▶バスで

 JR奈良駅や近鉄奈良駅からJR加茂駅までのバスサービス(奈良交通)があります。

自動車 (主なルート)

 大阪より: 国道163号線で木津まで来てから、木津川の右岸(北側)を通って恭仁大橋を渡り府道44号線南行きで加茂駅まで。

 ◎京都より国道24号線を南下し、木津川市内の国道163号線分岐を入り、木津川右岸(北側)を通って恭仁大橋を渡り府道44号線南行きで加茂駅まで。

 ◎奈良より 国道24号線を北上し、木津川市内の国道163号線分岐を入り、木津川右岸(北側)を通って恭仁大橋を渡り府道44号線南行きで加茂駅まで。

加茂ぶらりまち歩き

以下に、加茂を訪れる際のポピュラーなコースをいくつか紹介します。
 (「˅」をクリックすると、詳細が表示されます)

① 岩船寺から石仏の道を通って浄瑠璃寺へ《当尾(とうの)地区》

◎加茂駅から岩船寺までバスで行き、石仏の道を通って浄瑠璃寺を訪れ、加茂駅に戻るデイトリップ
コース:
加茂駅東口→(バス)→ 岩船寺(WC、拝観可) → 石仏の道一願不動笑い仏カラスの壺二尊随願寺跡あたご灯籠藪中三尊)→ 浄瑠璃寺 (WC、昼食拝観可)→ (バスで直帰可)→ 首切り地蔵→ 大門石仏群→ 大門摩崖仏→ 山の家バス停→(バス)→ 加茂駅東口
(4時間コース)

 コースの地図入りパンフレットはこちら

バス料金 :  400円 - 「1日フリーチケット」利用
岩船寺 拝観料 : 500円
浄瑠璃寺 拝観料 : 400円                                          
*当会の案内人がつく場合、上記に加え、運営協力金 5人まで1500円、以降 300円/人、及び、案内人のバス料金の支払いをお願いしています。

【ご注意】
岩船寺と浄瑠璃寺を結ぶ「石仏の道」は、整備されているとは言え山道のハイキングコースです。ハイヒールなどはお勧めできません。

両お寺提供の無料駐車場はありません。自動車でお寺まで行かれる方は、お寺前に民間駐車場がありますので、それをお使いください。なお、貸切りバスやマイクロバスで来られる場合は予約が必要です。

バスの「1日フリーチケット」は、車内では購入できません。加茂駅改札横にある観光案内所(土曜の午前中のみ営業)か、加茂駅から徒歩5分のところにある木津川市観光協会で購入してください。本会の案内人が付く場合は、確定した人数分をご用意することができます。

② いにしえの都 恭仁宮跡と雲上の海住山寺へ 《瓶原(みかのはら)地区 》

◎加茂駅から恭仁宮跡まで行って散策くにのみや学習館でビデオや展示を観覧海住山寺まで行って拝観した後、加茂駅まで戻ってくるデイトリップ
コース:
加茂駅西口→ 船屋通り→ 加茂浜→ 恭仁大橋→ 万葉歌碑→ くにのみや学習館(WC)→ 恭仁宮・山城国分寺跡→ 海住山寺(WC拝観可)→ 大井手用水→ 加茂ステンショ道標→ 加茂駅西口
(3時間コース)

※恭仁宮跡の後、海住山寺までは急な上り坂が30〜40分ほど続きます。体力に自信のない方は、加茂駅から海住山寺までタクシーの利用も考えてください。(情報は、木津川市観光協会のこちら▶ まで)

 コースの地図入りパンフレットはこちら

海住山寺 拝観料 : 500円                                   
*当会の案内人がつく場合、上記に加え、運営協力金 5人まで1500円、以降 300円/人をお願いしています。

③ まぼろしの「大仏鉄道」遺構めぐり

◎加茂駅から大仏鉄道が通っていたルートを辿り、その途中にある鉄道遺構を見ながら木津駅に行くデイトリップ
コース:
加茂駅東口→ SL動輪→ ランプ小屋→ 静態保存SL(C57型)→ 観音寺橋台→ 観音寺小橋台→ 鹿背山橋台→ 梶ヶ谷隧道→ 赤橋→ 大仏鉄道記念公園(城山台公園)(WC)→木津駅
(2時間30分コース)

※足に自信のある方は、大仏鉄道記念公園から木津駅に戻らず、そのまま南下、梅美台ショッピングモールを経て黒髪山のトンネル跡を通って奈良市内に向かうことも可能です。

 コースの地図入りパンフレットはこちら                                

*当会の案内人がつく場合、運営協力金 5人まで1500円、以降 300円/人をお願いしています。

加茂へは「ふるかも」がご案内!

▶ 当会の観光案内サービス

「ふるかも」では、ガイドを派遣し、加茂やその近隣地域の観光案内サービスを行っています。以下(右の˅) の了解事項をお読みください。

1)案内料は運営協力金として、お客様1名、1日につき300円、但し5名までは一括1500円いただきます。

2)案内の集合から解散までに必要なガイドの交通費や拝観料などはご依頼者にご負担いただきます。(寺社のガイド拝観料は多くの場合不要です。昼食代等についてはケース毎にご相談させていただきます。)

3)拝観、食事、駐車場等の予約や支払いは、ご依頼者でお願いします。

4)案内中に発生した事故や、他に与えた損害につきましては当会は補償致しません。(保険が必要な方は、各自でお願いします。)

5)お客様の安全を考え、気象情報で警報が発令されたり荒天などの場合は、直前でも催行を中止することがあります。

▶ 加茂を訪れると何が見れるか?、どんなコースが良いか?、ランチはどこで? などなど… どのような疑問でも、ぜひ当会事務所までお気軽に、お電話(0774-76-3989 月・祝以外やメール(furusato.annai@mint.ocn.ne.jp) でご相談ください。

▶「ふるかも」にガイドを依頼するには

「ふるかも」にガイドを依頼するには、以下(右の˅をクリック) ように  1) オンライン、2) Fax (あるいは郵送)、のつの方法があります。

1) オンラインで、パソコンやスマホの画面から行うには ⇨
  ここをクリックしてオンライン申込みへ!

2)Faxあるいは郵送で、申し込むには ⇨
  こをクリックして「案内人派遣申込書」をダウンロード ▶ 、印刷、記入して、Fax( (0774) 76-3989)、あるいは以下の事務所住所まで郵送してください。

 ※ なお、必要に応じて英語ガイドを提供することも可能です。あらかじめ、ご相談ください。

「ふるかも」はこんな活動もしています!

▶ 毎月の「ふるさと散歩」

 個別のガイドサービス以外、当会では毎月「ふるさと散歩」というウォーキング・ツアー(全日あるいは半日の日帰り)を行っています。これまで、「岩船寺〜浄瑠璃寺の石仏の道」や「大仏鉄道遺構巡り」、「恭仁宮跡〜海住山寺」、「藤堂高虎の足跡めぐり」などのポピュラーなコース、伊賀街道シリーズ、「加茂の寺社めぐり」シリーズなどいろいろな企画をして参加者を募っています。その際にはニュースで募集の案内をしますので、ご注目ください。

これからの「ふるさと散歩」予定表はこちら⇒

▶ 郷土学習支援

 当会は設立当初より、郷土 加茂の魅力を次の世代に伝えていく種々の活動をしてきました。その主なものは、木津川市内の小中学校(加茂小学校、南加茂台小学校、上狛小学校、州見台小学校、泉川中学校、など)の郷土学習の支援です。学校PTA、地域の子供会などで、もし「ふるかも」が行っている郷土学習のお手伝いにご興味がお有りでしたら、当会までメールや電話でご連絡ください。

▶ 加茂駅 観光案内所の運営

 JR加茂駅改札の横にある「観光案内所」をオープンし、加茂を訪れてくださった観光客の皆様におすすめの観光地やコースのアドバイスをしたり、交通機関のご案内などをしています。(現在土曜日午前中のみオープン)観光地のパンフレットの配布、加茂土産や地元野菜などの販売、当尾地域(岩船寺や浄瑠璃寺)への1日バスフリーチケットの販売なども行っています。

▶ 環境整備活動

 加茂の各地を快適に訪れていただくため、当尾地区や瓶原地区の雑草刈りなどを行っています。

あなたも「ふるかも」加茂をシェア

▶ NPO法人「ふるさと案内・かも」には、加茂を愛しボランティア精神豊かな色々な人達が集まっています、例えば以下のような。そして「あなた」も!

1)加茂をめぐる歴史や歴史遺産に興味があります!

2)加茂や近隣の寺院や神社、所蔵される仏像や石仏、文化財などを愛好します!

3)加茂の自然(周囲の山々、木津川、花や植物)が好き! ハイキングしたり、環境整備活動に参加したり、などなど、、、

)大好きな加茂を多くの人々や子供たち、国外の人達に紹介したくて、加茂ガイドとなってみたい!

5)加茂町、木津川市、南山城エリア、奈良市など加茂近隣住人です!加茂に興味があれば誰でも! 「歩き」に自信が無くても大丈夫、当会事務所や観光案内所に来て人達と交流したり情報交換するだけでもいいのです!

  など、など、、、、

もしあなたが、どれか1つでも当てはまるのなら、あなたも「ふるかも」に参加しませんか!


・まずは「ふるかも」の事務所にお電話(0774-76-3989 月・祝以外)を! ご興味やお知りになりたいこと、会のことなどお話しましょう。一度事務所(JR加茂駅から歩いて8分の青少年センター内)まで来てお話する機会をアレンジすることも可能です。例会や「ふるさと散歩」に体験参加してみるのもいいでしょう。

・研修や「ふるさと散歩」の下見に参加して、加茂について色々学ぶことができます。

・月1回、「例会」があります。(もし例会に定常的に参加できない場合、「賛助会員」となることもできます。)

・2000円/年の会費が必要です。

加茂の見どころ

① 岩船寺

加茂町の南部、浄瑠璃寺や岩船寺のある南当尾の一帯は、古く「小田原」と呼ばれ、仏教文化の花開いた所であった。東小田原は随願寺、西小田原は浄瑠璃寺といわれるが、それがいつしか「東小」「西小」という地名で現在に至っている。このあたりは山城国の中でも最南端になり、大和国に接し、奈良まで10㌔足らずで行くことが出来る。そのため、文化的にも経済的にも完全に南都の圏内に包摂され、古代から中世にわたって、南都の諸寺社の強力な支配下に置かれていたが、奈良と京都を結ぶ主要街道から東にそれた山懐に位置していたこともあって、戦乱の影響は少なかった。

「岩船寺縁起」によると、行基が鳴川(奈良市)に建立した阿弥陀堂がその始まりと記し、弘安2年鳴川山寺の東禅院灌頂堂を岩船寺に移し、 同8年に供養したという。 「岩船寺」の寺号は、岩船寺から随願寺に向かってくだって行く途中にある,弘安10年(1287)の不動磨崖仏の銘文に始めて登場し、 続いて永仁7年(1299)の阿弥陀三尊石仏(笑い仏)に見える。

空海の甥の智泉が、岩船寺中興の祖といわれ、整備した。智泉は空海に従って大安寺に入り、804年出家、受戒した。 空海の入唐に同行したという。智泉は嵯峨天皇の妃、橘嘉智子の帰依を受けて皇子誕生を祈った。810年に皇子(後の仁明天皇)が生まれると、橘嘉智子の寄進により、岩船寺は堂舎39坊を誇ったという。

岩船寺の山門に立つと、寺名の由来でもある船型の岩風呂があり、緑の中に本堂や十三重石塔や三重塔が建つ。夏のアジサイの他、四季を彩る花々が美しい。

阿弥陀如来坐像(重文):本尊。像内の墨書銘によって確かめられ、10世紀を代表する仏像として広く知られている。 天慶9年(946)が造像の年と考えられている。像高248㌢というこの巨像は、本体を欅の一材から彫成している。本尊阿弥陀如来像の四隅に立つ四天王像は前に安置される持国天と増長天が口を開き、動きのある姿勢であるのに対して、 後方の広目天と多門天は口を閉じて穏やかな姿勢を見せる。

厨子入普賢菩薩騎乗像:空海が鳴川に善根寺を建てた後、その甥にあたる智泉が建てた報恩院の本尊であった。平安後期の作で、六牙の白象に乗る普賢菩薩は像高39.5㌢、本体は楠材の一木造である。

三重塔(重文):室町時代。境内の一番奥まった所に位置し、昭和18年の解体修理の際、二番目の丸桁(ガギョウ)から嘉吉2年(1442)の刻銘が発見され、室町時代に建てられたことが判明した。塔の構造形式は三重塔の通例を守り、各重とも方3間、組物は三手先、軒は二重繁垂木である。塔の規模は、初重が3.4㍍四方、総高は17.56㍍で、屋根の勾配が大きく本瓦葺のため、安定感のあるシルエットを見せ、周囲の木立ともあいまって堂々とした印象を与えている。三重塔は、平成12年~15年に大修理が行われ、朱に塗り替えられ内部壁画も復元された。

十三重石塔(重文):石造り、総高6.3㍍。鎌倉時代正和3年(1314)妙空僧正の創建になる。これは、初七日から33回忌に至るまでの13回の追善供養のために作られた。

五輪塔(重文):石造り、総高2.8㍍,鎌倉時代の作。東大寺別当平智僧都の墓という。もと岩船村の北谷墓地にあったものを移した。

石室不動明王立像(重文):石造り、石室総高2.18㍍、像高1.15㍍、鎌倉時代の作。前面左右に2本の角石柱を立て、その上に寄棟造りの一枚岩の屋根をかける。 床面は地盤面より低くし、中に清水をたたえる。奥壁に不動明王立像を薄肉彫りし、像の両側に銘文があり、1312年の造立とわかる。寺の塔頭である湯屋坊に住んでいた僧盛現が、 眼病平癒を祈願して霊験を得たので、報恩のために建立したといわれている。

浄瑠璃寺

浄瑠璃寺という名から連想されるのは、優しさ、清らかさであり、その名のとおり、緑に包まれた三重塔と阿弥陀堂が美しい池を挟んで東西に向き合う境内は、清浄そのもの ー 浄瑠璃寺という名は、薬師如来の浄土である東方浄瑠璃世界にちなみ、本堂に9体の阿弥陀如来坐像を安置することから九体寺とも呼ばれた。体像を持つ堂は平安貴族によって京都を中心に次々と建てられたが、本寺は現存するわが国唯一のものである。参道の西側にはアシビが茂り、早春には白い花をつける。


浄瑠璃寺は、天平11年(738)行基によって開かれたという説もある。浄瑠璃寺は、小さい草庵のようなものから出発した。当初は薬師如来が本尊であった。この薬師如来像は現在庭園東側の三重塔初重に安置されている。薬師如来の浄土が東方に位置する瑠璃光浄土であることをあらわしている。寺号の「浄瑠璃」というのもそこから来ているが、現在浄瑠璃寺が本尊としているのは、九体の阿弥陀如来像である。


浄瑠璃寺では、嘉承2年(1107)それまであった本堂を取り壊し、新たに本堂を建立している。これが現在の本堂であるが、翌3年に総供養が行われ、東小田原の阿闍梨迎接房(ゴウショウボウ)が導師として参加している。迎接房は興福寺に入り、学問をもっぱらにした後、にわかに菩提心を発起し、小田原の寺院に隠遁して阿弥陀念仏に励んだ。この後応保2年(1162)には、勝宴を浄瑠璃寺別当に補任する藤氏長者宣(藤原氏の氏の長者が発する御教書)が、興福寺別当恵信に当てて出されている。この興福寺別当恵信は浄瑠璃寺に深い関わりを持った人物である。藤原忠通の子で、興福寺一乗院に入り、当初覚継と称した。久安6年頃、小田原に止信していた延観の草庵に隠遁していた。小田原に隠遁している間、浄瑠璃寺を一乗院の祈願所にしたり、寺院の境界を定め、池を掘って庭園の整備を行った。寺院としての環境整備は、九体阿弥陀堂と浄土庭園の一体化を指しており、現在見られる浄瑠璃寺の景観は、基本的にこの時完成した。恵信の築いた基礎は大きく、治承2年(1178)京都の一条大宮から三重塔が移築され、浄土庭園が完成したのをはじめ、堂舎のみならず多くの仏像が造立された。この後、浄瑠璃寺は恵信との関係によって、興福寺一乗院と本寺末寺の関係を結び、明治初年まで続くことになる。この関係は、浄瑠璃寺が藤原氏の氏神春日神社ともつながりを持つことを意味しており、 文治4年(1188)には寺の鎮守として、春日大明神と春日若宮の神木・神鏡を勧請している。


九体阿弥陀如来坐像(国宝):木造、像高:中尊、脇仏、平安時代の作。 中尊は、来迎印を結ぶ丈六の阿弥陀如来坐像。左右に四体ずつ,半丈六の阿弥陀如来坐像が定印を結んで横一列に並ぶ。九体がそろった平安時代の唯一の遺例である。


地蔵菩薩立像(重文):木造、像高157.0㎝、平安時代。 腹部に結んだ紐を腹帯とみて、子安地蔵と呼ばれる。左手に如意宝珠を乗せ右手は与願印。 額の白毫には水晶を埋める。


本堂前の石灯篭(重文):石造り、高さ215㎝,室町時代,重文。  三重塔の下、池のほとりに立つ六角の石灯篭は、薬師如来に献じられる明かり。1366年の造立で、願主は阿闍梨祐実との銘がある。


 三重塔国宝:総高16.08m、平安時代。1178年(治承2年)、京都一条大宮から移築されたと伝える。京都府でただ一つ現存する平安時代の三重塔は、小規模で美しい。心柱は第二層で止まり、初層内部後寄りに薬師如来坐像を安置する。


吉祥天女像(重文):木造、造高90.0㎝、鎌倉時代。 中尊の横に安置された厨子に納められた秘仏。除災増益を司る天女で、吉祥悔禍の本尊として 祀られた。1212年の作とされる。


 薬師如来坐像(重文):木造、像高86.4㎝、平安時代、三重塔に安置。  三重塔の本尊として祀られる秘仏で、浄瑠璃寺のもとの本尊。左手に薬壷(ヤッコ)を乗せる。製作時期については1013年と1047年説がある。


不動明王及び二童子像(重文):1311年に建立された護摩堂の本尊であった。本堂の左脇壇に安置。 向かって右に「コンガラドウジ」左に「セイタカドウジ」を配した三尊像で、いずれの像も 眼は玉眼。不動明王の頭部は暗赤色,肉身部は群青色であるが、ほとんど黒に見える。


木造四天王像(国宝)木造、像高167169.7㎝,平安時代。体の動きは控えめで、落ち着きを感じさせる。現在、持国天と増長天の二天で本尊を守っている。広目天は東京国立博物館、多聞天は京都国立博物館に寄託中。

 

馬頭観音立像(重文):木造、像高106.5㎝,鎌倉時代、奈良国立博物館寄託。 頭上に馬の頭を乗せるのは、馬が草をむさぼるように諸悪を消滅させる菩薩であるため。四面八臂三目で憤怒の面相に造る。明治時代の修理の際に発見された胎内銘文から、1241年に良賢、増金、観慶の南都仏師が製作したことがわかった。

③ 海住山寺

「海住山寺」という寺名は、鎌倉時代に解脱房貞慶がこの寺を中興した際名付けたもので、元は天平7年(735)、聖武天皇の勅願によって、東大寺の良弁僧正が開基したと言われます。瓶原の背後の山の中腹にあります。山麓から寺まで1kmの山道はやや上りがきつい坂道ですが、眼下に瓶原一帯を一望できる景観はすばらしいものです。

海住山寺ホームページはこちら▶

本堂:明治17年(1884)の再建。外観は桁行五間、梁間4間、入母屋作り、本瓦葺、正面に 一間の向拝を付し、側廻りは浅唐戸、縁は擬宝珠高欄をめぐらした復古的な大堂である。

本尊十一面観音立像: 本堂の厨子内に安置されている。高さ約1.7m、右手垂れ左手に宝瓶を持つ一木彫成の素木造りで、大らかな風貌の中に威厳をたたえ、その背面の板光背には彩色のあとが僅かにみられる

文殊堂:木造文殊菩薩坐像、阿弥陀如来坐像を安置する。建物は正面柱間が三間、側面が二間、屋根が一重寄棟造り、銅板葺とし、正面中央は板唐戸、両脇間は連子窓とし、側面は両側とも柱間は壁となっている。斗きょう は三とを組み、斗きょう間には宇治上神社のそれを思わせる美しい蟇股を用いている。内部はぬぐい板敷、天井は化粧屋根裏、構架(梁組)は紅梁と板蟇股とするなど、よく鎌倉時代の建築様式をとどめている。

石船長さ2m余り(211cm)、高さ70cm、幅1、1m程の花崗岩製の水槽である。寺僧が冷水浴に使ったものと言われ上縁に正嘉二年(1258)の紀年銘が刻まれている。

五重塔(国宝): 鎌倉時代再興当時の面影をとどめる現存唯一の古建築で、建保二年(1214)に完成し後鳥羽上皇より賜った舎利二粒に五粒を加えて塔内に安置したと伝えられる。外観は方三間、本瓦葺、高さ17.7m、廻り縁付き、各面中央の間は板唐戸、両脇は連子窓とし、各層の軒反りもゆるやかである。内部は四天柱によって内外陣に分ち内陣には四天王立像を安置し、その周囲を天部および比丘形四体を描いた扉絵八面によって荘厳化されている。中心柱が初層の天井の上にあって、礎石の上に立っていないのは、五重塔としては初めてのものと言われる。この塔は慈心上人が解脱上人の一周忌供養のために建立したものと言われる。

④ 石仏の道

👷 申し訳ありませんが、現在工事中です。

⑤ 木津川

👷 申し訳ありませんが、現在工事中です。
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・木津川は源を鈴鹿山脈に発し笠置、山城より淀川に合流、大阪湾にそそぐ。全長89Km
・木津川はもと和訶羅河といい、崇仁天皇に武埴安彦が「挑みかかった」ことにちなんで「伊杼美(いどみ)」と改名され、それが訛って泉川となった。
・木津川上流や和束川を柴舟で下ってきた物資は加茂浜で上荷船に積み替え中継されて京都、大阪方面へ運ばれた。
・奈良の大仏殿の木を運んだり、大阪城の石垣の石を運んだりと古い昔を偲ぶことが出来る川である。

Kizugawa-river flows south part of Kyoto facing north and join to Yodogawa-river which connects to Osaka-Golf. Before running from south to north it curves almost at right angles from east to west dividing Kamo village to north part and south part. Once upon a time there were 6 river bank ports and each had prospected with many travelers and loads from/to central of Kyoto and Nara. In 8th century enormous quantity of woods were carried from Iga Ueno village to construct the hall for Great Buddha of Todaiji in Nara. And a lot of records tell us that many nobles, great monks and Samurais had traveled around Kamo by boat or by walking the path along with the river. Also this mystique river has taken on the important role to create Uji Green tea with it's rich quantity of water and the swift stream. 

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