【資料】加茂の寺社・文化財

目次

▶お寺関係

【瓶原】地区

◎心光庵跡

心光庵は袋中上人が晩年の13年間居住された庵で、今は荒れた茶畑になっている。

袋中上人は名を袋中字は良定、或いは弁連社入観とも云われた。日本人として始めて琉球に布教に行かれた方で、沖縄の伝統芸能「エイサー」の祖とも言われる。
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名称:心光庵(袋中庵)
年代:寛永元年 (1624年)
所在地:木津川市加茂町西
アクセス:恭仁神社参道脇の西側茶畑の中

◎東福寺

本尊は地蔵菩薩で、平安後期のものである。宗旨は代々真言宗である。徳川幕府の宗教政策により、延享2年(1745)の檀家制度下における海住山寺の本末関係によると、海住山寺の塔頭蔵之坊の里方末寺となっている。

現在の建物は、昭和53年(1978)井平尾区民の浄財によって改築された。浄土宗西山光明寺派楊谷寺の千手観音菩薩の分身が明治2年3月6日に開眼供養され安置されている。眼病に霊験あらたかと今も毎月17日には、区内外からの参詣がある。

鶯瀧寺

良弁上人の創建と伝えられ、裏山の鶯の瀧に因んだ寺名がつけられている。浄土宗のお寺で本尊は阿弥陀如来座像、門前に延命地蔵がある。

境内には薬師堂があって、明治時代に荒廃した願応寺から薬師如来像(平安)、地蔵菩薩立像(平安)を移して祀っている。 また、心光庵から袋中上人関係の古文書や「袋中上人絵誌伝」預かり保管している

※「袋中上人絵誌伝」は市指定文化財で山城郷土資料館に保管されている。
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名称:鶯瀧寺
年代:天平14年(742)開基は良弁上人。寛文12年(1672)僧載與が中興。
所在地:木津川市加茂町西城垣外
アクセス:恭仁宮から西へ徒歩15分

△西念

明治期に廃寺となるが、それまでは京都の随心院末寺であったといわれ、千手観音を本尊とする真言寺院であったという。

鎌倉中期 弘安四年(1281)の等身大、在銘地蔵石仏が地蔵堂内に置かれている。

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所在地:木津市加茂町河原橋ノ本)

加茂地区

◎薬師寺

薬師寺は元禄15年(1702)転宗事件で寺を失った浄土宗の人たちが無住であった薬師堂を新しい檀那寺にしたものです。文政年間(1818~30)に度々水害に見舞われたため船屋から現在地に移転したと伝えられています。
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名称  薬師寺
年代  江戸時代 
所在地 木津川市加茂町兎並
アクセス  JR加茂駅東口から東へ約2㎞

△金光明寺

河原の西南の田地に光明寺跡といわれている土地があり、古墳状をしていて金光明塚といわれている。明治15年、近所の里人が発掘調査したところ、石浮屠(仏のこと)と古瓦が出てきた。推定されている事は、行基菩薩が、天平九年瓶原に64洲で最初の国分寺をここに建立したのではないかということである。そして、天平18年恭仁宮廃後の大極殿が国分寺に施入されたことにより、ここから恭仁宮に移ったと考えられる。

名称 金光明寺 (金光明塚)
年代
所在地 木津川市加茂町河原下の浦平

△本照寺

奈良時代、元明天皇が鋳銭司を設けたとき(和銅元年(708))鋳銭守護の善神として妙見大菩薩を安置して祈ったのが始まりと伝えられている。しかし、鋳銭廃止に伴い衰退し始め、僅かに氏神の末社のごとく形のみ留めるほどになる。江戸時代になり、伊賀の藤堂家の守護を得て再び栄え始めたが、天明3年(1783)に村中が大火災にあいすべてを焼失した。その後文政年間に妙見大菩薩千日供養講を組織し大いに栄え、万延・慶応年間に藤堂家の菩提寺、上行寺の援助により、法華宗の祈祷所となった。本照寺は室町時代、久世郡久我村(今の伏見区)にあり、真言宗であったが、公家竹内秀治の出家により、日蓮宗に改宗される。更に、大正時代に一山一寺の資格を得たいと願う銭司祈願所から寺名を貰えないかとの話がでる。その結果、竹内の本照寺と福生寺を合併して本照寺の寺号を銭司へ持って来、妙見宮(銭司祈祷所)を妙見山として妙見山 本照寺となり今日に至る。「久遠実成の釈迦牟尼仏」を本尊とし、「法華経」を根本経典とする日蓮宗の寺である。
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名称 妙見山 本照寺
年代 奈良時代(708年)所在地 木津川市加茂町銭司金屋
アクセス 国道163号線 木津川北面

旧燈明寺

新川にかかる橋を渡ると、小高い森に向かって真っ直ぐに石段をのぼります。現在は、正面に御霊神社、左手に旧灯明寺の遺品を納める収蔵庫などが建っています。灯明寺は、奈良時代行基の開基とされ、真言宗龍王山観音寺と称しました。御霊神社はその鎮守杜として祀られていました。鎌倉末期兵乱に遭い,室町時代忍耐禅により天台宗の寺として再興され東明寺と改称されました。徳川時代、藤堂藩の援助を受けて再興されて日蓮宗になり、燈明寺と改められました。旧燈明寺に現在伝わっている五体の観音像などは年1回(11月3日頃)一般公開されています。明治の廃仏毀釈から衰え、大正3年に三重塔を、昭和57年に本堂を横浜の三渓園に売却しました。今は関東で最も古い塔として観光名所になっています。

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名称 旧灯明寺
年代 奈良時代
所在地 木津川市加茂町兎並
アクセス JR加茂駅東口から東へ約2㎞

◎西明寺

僧行基の開基と伝えられていますが、江戸時代中頃の洪水で流出し、平野部から現在地に移転、再建されました。寺蔵の文化財は極めて多く、彫刻・絵画ともに中世以来の作と伝えられていますが、一般公開されていないのは残念です。
【主な文化財】
・木造薬師如来像:平安中期 重文
・木造十一面観音菩薩立像:平安後期
・木造地蔵菩薩立像: 鎌倉末期
・仏画類:室町
など
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名称 華頂山薬師院 西明寺(さいみょうじ)
年代 江戸時代再建 享保3年(1718)
銘文抄
所在地 木津川市加茂町大野
アクセス JR加茂駅 西約2㎞

◎西光寺

西光寺は、奈良時代に活躍した僧行基が開基したという伝承があります。墓地を守り、供養するための墓寺と考えられています。墓地内の石塔の中には、鎌倉時代に造られた五輪塔も見られます。ムクロジの大木が境内を見守っています。

名称 西光寺
年代 奈良時代
銘文抄
所在地 木津川市加茂町観音寺
アクセス JR加茂駅西口から西へ約2㎞

◎常念寺

常念寺は里の集落の南方にあります。もとは平野部にあったお寺で、江戸時代に水害に見舞われ高台に移って再興されました。室町時代に念仏と法話を行う念仏道場を開いたのが始まりと言われています。 本堂前の広場横にある大きな石は、大阪城修復の際、籐堂高虎の指図で切り出された石のひとつです。常念寺には驚くほど多くの仏像が安置されています:大黒さま、釈迦三尊像、薬師如来像、地蔵菩薩像、仏涅槃図(重文)、地獄の冥官たちなど…

名称 常念寺
年代 江戸時代中期
銘文抄
所在地 木津川市加茂町里
アクセス JR加茂駅東口から南へ約1㎞

◎地蔵院

地蔵院は1716年に銭司村から移築した浄土宗寺院です。その以前、この地には奈良時代に観音寺が建立されていました。元禄時代に、観音寺は廃寺となったのです。藤堂藩から天台律宗に改宗するよう命ぜられ、これを拒否したのが原因のようです。
【文化財】
・阿弥陀如来坐像・観音菩薩・勢至菩薩
・地蔵菩薩立像(桜材一木造り)(平安中期)加茂町指定文化財
・十一面観音(桧材一木造り)(平安末期)
・十三重塔(鎌倉)(今は、九重塔に変わっています。元観音寺の境 内にあったものです。)
・釣鐘 1765年徳川家治時代のものです
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名称 地蔵院
年代 江戸時代中期
銘文抄
所在地 木津川市加茂町観音寺中貝戸
アクセス JR加茂駅西口より約2㎞ 徒約20分

◎高田寺

創立は奈良時代と伝えられ、当時は広い寺域に伽藍の建ち並ぶ大きなお寺であったと言われています。本尊は薬師如来坐像です。 仏像修理の際、台座からは保安(1120~1124)の年号と万葉歌人藤原実方(さねかた)の和歌「五月やみくらはしやまのほととぎすおぼつかなくもなきわたるかな」の散らし書きが発見されました。
【主な文化財】
・薬師如来坐像 平安後期(重文)
・阿弥陀如来坐像  平安時代

お寺の庭に佇んでいる地蔵菩薩は「夜遊び地蔵」と呼ばれ、次のような話が言い伝えられています: むかし、村の若者達が休みを要求して、夜中にこの地蔵さんを担ぎ出し、村長さんの家の門前に置いたそうです。困った村長さんは、しぶしぶ若者達の望みを聞き入れました。その後もこの地蔵さんは度々若者達に担ぎ出されるうち、鼻がちょっぴり欠けたようです。ちなみに若者達が担いだ時のお地蔵様は軽かったそうです。

その他の写真
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名称 高田寺(こうでんじ) 真言宗
年代 奈良時代
銘文抄
所在地 木津川市加茂町高田
アクセス 奈良交通バス 加茂~奈良線 高田下車

◎鹿背山不動

本尊の不動明王は火焔を背に、右手に剣を持ち、左手には窿索を持ち、お顔は怒りの形相で立っています。両脇には作者の名前と作られた年月(1334年)の刻銘があります。社の右方に石不動(いわふどう)と言われる大きな岩山が突き出ていますが、昔、この山頂の岩の上で仙人や天女が碁を打っていたといわれています
・しょんべんたれ地蔵(鎌倉後期)
社と石不動の間の坂道を登った山頂近くにあります。このお地蔵様に7日間お参りすると「夜尿症」が治ると言われています。お地蔵様が代わって「寝小便」をしてくれるからだそうです。そのための小さな窪みがお腹のあたりにあります。
・春日のおばはん(室町時代)
ちょっと変わったニックネームのお地蔵様です。鬼門筋に当たる奈良の興福寺・春日神社の方を向いて立っています。名前の由来は、お腹がぷっくらと膨れたように見えることから「中年のおばさん」を連想したようです。
⇒他の写真
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名称 鹿背山不動
年代 鎌倉時代末期
銘文抄 石大工末次 建武元年(1334)11月21日
所在地 木津川市木津町鹿背山
アクセス 奈良交通バス 加茂~奈良線梅谷下車・美加原カントリー近く

当尾地区

◎浄瑠璃寺奥の院

急な山道を下ると、赤田川へ注ぐ支流が滝を作り、杉の巨木やホウノキに包まれた浄瑠璃寺の奥の院跡地に出る。新しく作られた不動や童子の像が祀られているが、線刻の古い不動明王は滝の上に下半身を残し上半身が前方に落下している。
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名称 浄瑠璃寺奥の院 不動磨崖仏
年代 鎌倉時代
銘文抄 永仁四年(1296)丙申二月四日 願主僧祐乗
所在地 木津川市加茂町西小長尾
アクセス 長尾バス停より山道を下る約5分 赤田川上流。

◎神福寺跡

森八幡神社裏山の融通念仏宗の廃寺跡で、創建時は不明であるが、享和三年(1803)の当尾郷寺社改には記載されている。本尊は十一面観音(像高120㌢)で、明治7年(1874)の廃仏後は、森の公民館に保管されている。 現地には、阿弥陀と地蔵が上下に彫られた双体石仏(高さ100センチ)が残っている
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名称 神福寺跡
年代 不詳
銘文抄
所在地 加茂町森上垣外
アクセス 下手口バス停より徒歩15分

◎金蔵院

金蔵院の創建に関する資料は乏しく、それを確定することは困難であるが、寺伝では本尊十一面観音の由緒と共に次のような話が伝わっている。浄瑠璃寺の意教上人が深く十一面観世音を信仰され、後一条天皇(1016~1036)により、唐から請来された金銅十一面観音七体のうち一体を賜り、東小田原の観音院に祀り、長元8年(1035)尻枝村の現在地に移し開創された。これが金蔵院であるとされている。中世の記録はほとんど失われ、安置されている本尊銅造観世音菩薩(白鳳期若しくは渡来仏の作風)、阿弥陀如来像、大日如来像、地蔵菩薩立像などの古い作風から寺の来歴を推し量るしかないが、江戸期以降については、元禄期からの記録を散見することができ、当初から浄瑠璃寺の末寺として栄枯を共にし、明治13年4月には尻枝村内の弘念寺、西光寺を、更に東小の釈迦寺、大門の阿弥陀寺を併合して現在の檀家の形態が始まっている。境内の建物は、老朽のため、昭和62年に庫裏、平成5年に本堂が建て替えられ、現在の寺観となったものである。
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【主な寺宝】
・本尊十一面観世音菩薩立像 銅造(秘仏) 白鳳時代
・地蔵菩薩立像 寄木 漆箔 鎌倉時代
・阿弥陀如来坐像 寄木 漆箔 江戸時代
・釈迦涅槃図 紙本 江戸時代 元文3年(1738)
・梵字六字名号 板碑  石碑 室町後期 大永6年(1526)
・十三重塔 石造
他の写真
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名称 念彼山 金蔵院 (真言律宗 浄瑠璃寺末)
年代 創建 不詳、現本堂(平成5年)
銘文抄
所在地 加茂町尻枝浅生91
アクセス 辻バス停より徒歩約500m 尻枝公民館横西折

◎宝珠寺

この地方で禅宗寺院は珍しく、旧相楽郡内に2寺を数えるのみである。どのようにして禅宗が当尾に入ったかは明らかでない。元禄10年(1697)の寺社改めの時、すでに越前国永平寺末としてこの寺の存在が記録されている。西小浄瑠璃寺の檀家である辻地区の人々が信徒となって寺院を護持している。境内には、高さ168センチ鎌倉時代の五輪塔や、優れた地蔵石仏が安置されている。
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名称 曹洞宗 宝珠寺
年代 創建不詳 本堂は平成初期に改築
銘文抄
所在地 加茂町辻広垣外
アクセス 当尾線バス停 当尾公民館隣

◎大倉墓地

当尾では何時からか分らないが、森八幡から流れ下る長坂川を境にして北に住む人は大倉墓地へ、南は千日墓地へ葬られることになっている。死者がこの川を渡ることは忌事なのである。従って大倉墓地は北下手・森、南下手集落の共同墓地で室町期以後の石造品が数多く遺されている。
【主な寺宝】
・十三仏板碑 永禄六年(1563)十月十三日 斎講供養人数(結縁者20人) 十三仏が種子(梵字)で刻まれ配列が変則的である。高さ119センチ
・阿弥陀板碑 慶長十五年(1610) 定印の阿弥陀を浮き彫りにした珍しい板碑 高さ127センチ 像高41センチ
・地蔵石仏 慶長九年(1604) 結縁者20人 高さ80センチ 像高67、5センチ
・地蔵石仏 慶長十三年(1608) 結縁者24人 高さ130センチ
・六字名号板碑 寛文十三年(1673) 結縁者18人 高さ102センチ
・六字名号板碑 延宝三年(1675) 結縁者7人 高さ107センチ
・六字名号板碑 宝永七年(1710) 結縁者 森村15人 両下手15人 高さ97、5センチ
・六地蔵石仏 宝永七年(1710)
・五輪塔 推定鎌倉後期
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名称 大倉墓地
所在地 加茂町北下手
アクセス 当尾線下手バス停より徒歩、加茂カントリー道 途中坂頂上より左折約300m

千日墓地

千日墓地は辻・尻枝・南下手(一部)・高去地区の共同墓地である。東西二箇所に出入口があり、石の鳥居があるなどの珍しい特徴を備えている。特に重要文化財に指定されている十三重石塔をはじめ当尾最大の双仏石など様々な石造品の宝庫である。
【代表的な石造品】
・十三重石塔 重文 高さ490cm 永仁六年(1298) 鎌倉時代
・双仏石 像高 77cm 南北朝
・阿弥陀石 像高 65cm  天正八年(1580)
・阿弥陀三尊石仏 像高 70cm 室町時代
・地蔵石仏 (受取り地蔵)  像高 90cm 天文十七年(1548)
・種子十三仏板碑 高さ 121cm 永禄三年(1560)
・六字名号板碑 高さ 113cm 文亀三年(1503)
・その他多数
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名称 千日墓地
年代
祭神
所在地 加茂町辻三田
アクセス 当尾線バス停より徒歩 浄瑠璃寺に向かって約1km

貝吹岩

岩船寺の境内の高台にあります。一畳ほどの大きさの岩石で、岩の上からは木津川市一帯の山野を一望に眺めることができます。昔この付近には三十九坊を数える多くの堂舎僧房があって、法要厳修のときにはこの岩の上に立って貝を吹き鳴らし、一山の僧侶を呼び集めたと伝えられています。

西小五輪塔

加茂山の家からバス道に沿って浄瑠璃寺へ登る途中、右手の西小墓地の入り口に重要文化財の二基の五輪塔があります。鎌倉時代に造られたもので、大和系五輪塔の代表作で、東塔は215cm、西塔は少し低く170cmです。

浄瑠璃寺参道 笠塔婆 (丁石)

現在、西小口の辻堂のところから浄瑠璃寺までに、4基の存在が確認されているが、かつては1丁ごとに存在していたと考えられる。
【確認されている丁石】
① 辻堂 焼け仏付近 左側
② 旧道と現府道の交叉する地点 左側
③ 長尾付近 右側
④ 浄瑠璃寺前参道 左側 いづれも 高さ106㎝ 23㎝角の角柱であるが笠はない。上部には、金剛界大日、胎蔵界大日、降三世明王の梵字が刻まれているほか上表の年号が刻まれている。写真は①辻堂 焼け仏付近 左側
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名称 浄瑠璃寺参道 笠塔婆 丁石 4基
年代 南北朝時代
銘文抄 ③応安六年五月十五日、④文和四年霜月廿三日
所在地 加茂町西小 浄瑠璃寺参道
アクセス 西小バス停より徒歩

▶石仏など石造物

一願不動

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◎焼け仏

・半肉彫りの中尊阿弥陀如来 165cm
・向かって左脇侍地蔵菩薩48cm 
・右脇侍十一面観音45cm

上記三体が一つの岩に刻まれ、高田・西小・尻枝・大門への十字路の辻堂に祀られていたが、昭和2年(1927)9月火災に遭い、見るも痛ましい焼け仏になった。中尊は立像で頭部は焼け落ちて大きい割れ目が入っている。残っている指の形から阿弥陀如来であることが分かる。左脇侍は長谷寺型十一面観音、右脇侍は地蔵菩薩と推定されるが阿弥陀三尊であろう。
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名称:辻堂(つじんど) 阿弥陀三尊石仏
年代:鎌倉時代末期
銘文抄:「願主 腎範 元享三年葵亥六月八日造立之」 (1323)
所在地:木津川市加茂町西小峯畑
アクセス:西小バス停 北100m

◎カラスの壺二尊

「東小」のバス停から石仏の道を約400m行くと「カラスの壷」と呼んでいる三叉路に行き当たる。「カラス」の名は、ここにある岩の上部に穴が穿たれており、それが「唐臼」を思わせることに由来するという。この道の右側の巨岩の二面に、東を向いて阿弥陀坐像 (総高90cm、像高69cm)、南を向いて地蔵立像 (総高103cm、像高78cm) が彫られている。又、阿弥陀坐像の向かって右側には、線彫りの灯篭 (高さ48cm) に火袋が彫り込まれており、献灯が可能な珍しいものである。 両像とも康永2年(1343) 3月の造立である。阿弥陀、地蔵は夫々恒性、勝珍が願主で、この地の人々の極楽往生を願って造立したものであろう。

名称:阿弥陀・地蔵磨崖仏
年代:南北朝時代
銘文抄:
・阿弥陀像 康永二年癸未三月十五日    願主 恒性
・地蔵像 康永二年癸未三月廿四日   願主 勝珍
所在地:木津川市加茂町東小
アクセス:東小バス停より 石仏の道 約400メートル

◎笑い仏

当尾の石仏を代表する名品であり、石仏の道・みろくの辻の磨崖仏からカラスの壷へ抜ける山道の途中、右土手の上にある。像は、前方の谷合から生駒山を越えた西の方角を向き、彼岸の頃には日没の太陽に向かって照らされる。中尊は上品上生の定印を結ぶ阿弥陀如来坐像、 像高76cm、舟形光背の厚肉彫り、脇侍は蓮台を持つ観音菩薩と合掌する勢至菩薩の三尊である。巨大な屋根石が廂のように出ていて、 頂部前方に溝が彫られているので風雨を防ぎ磨耗が少ない。優しく微笑むような表情から「笑い仏」と呼ばれるようになった。作者は伊末行といい、平重衡の南都焼き討ちにより消失した東大寺再興のため、中国から招かれた石工 伊行末の子孫(孫?)である。

ねむり仏

わらい仏のすぐ左横で半ば土に埋もれて首だけを地表に出している地蔵菩薩像である。南北朝期の作と思われ、像高は定かでないが錫杖を持つ坐像で、伊派の石工行経の手によるものかもしれない。村人の信仰が厚く、古くから埋もれているそうだ。

◎藪の中三尊

浄瑠璃寺の東方、東小集落中程の藪中、花崗岩の岩肌にに彫られた三体の磨崖仏。銘文から、ここは随願寺(東小田原寺)の塔頭 浄土院であり、随願寺塔頭の本尊であったことがわかる。弘長2年(1262)は釈迦寺の阿弥陀石仏と同じ年代で、当尾石仏中最古の銘をもつものである。中尊 地蔵立像 (総高 196cm 像高 153cm) は、中央正面 錫杖を持つ地蔵菩薩立像。額の小さな穴は白毫のはめられた跡で石仏では大変珍しい。阿弥陀如来坐像 (総高 130cm 像高111cm) は、中尊の向かって左袖のように出た岩肌にある。十一面観音菩薩 (総高 138cm  像高 113cm ) は、中尊の向かって右に錫杖を持つ長谷寺型の様式である。

名称 :藪の中三尊磨崖仏(中尊地蔵・阿弥陀如来・十一面観音)
年代:弘長二年(1262年)
銘文抄:東小田原 西谷浄土院 願主 沙彌浄法比丘尼善阿弥陀仏 千手女僧戒万/与力衆僧増願僧九縁清太郎良僧 弘長二年壬戌四月廿四日/刻彫畢大工橘安縄 小工平貞末
所在地:木津川市加茂町東小東山  (東小田原寺塔頭浄土院跡)
アクセス:東小バス停すぐ

たかの坊地蔵

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長尾阿弥陀磨崖仏

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水呑地蔵

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笠塔婆(丁石)

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一鍬地蔵

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◎東小のあたご灯篭

東小集落の中程、三叉路傍に立つ高さ約2mの細長い自然石を使用した変わり(風流)灯籠である。火難除け愛宕信仰の遺物で、村々に愛宕講があり、一年に一度火の神を祀る京都愛宕神社へ代表がお参り(代参)して戸数分のお札(火廼要慎)をもらって帰りみんなに配る。各家ではかまど近くの柱に貼って火の用心のお守りとした。この風習を今も続けている集落もある。かつてはこの灯籠に毎夜灯明が灯されたようだが、最近ではともされなくなっている。同型の変わり灯籠は当尾ではこのほかに二基現存する。

首切り地蔵

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大門磨崖仏

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森八幡の線刻石仏

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みろくの辻

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三体地蔵

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穴薬師

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西小五輪塔

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赤地蔵

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青地蔵

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辻地蔵不動石仏

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瀬谷不動石仏

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◎薬師橋の道標

新川にかかる薬師橋のたもと、三叉路になっている東端に道標が一本と小さな石龕仏が並んで建っています。この道標は「右 なら道 加茂大明神」「左 いがいせ」「天保11年建立」の銘が刻まれています。新川堤防上の道は、かなり昔から利用されていたようです。

名称  薬師寺
年代  江戸時代 
所在地 木津川市加茂町兎並
アクセス  JR加茂駅東口から東へ約2㎞

籐堂高虎 供養碑

灯明寺の北の谷を間にした丘陵の尾根、通称「イシバ山」にあります。灯明寺の墓地で,代々の住職の供養碑があります。藤堂高虎の墓6ヵ所のうちの一ヵ所です。「寒松院殿道賢高山権大僧都神儀」と銘があり、254cm×94㎝×49㎝あります。

文化坂石碑

文化坂は歴史学者 内藤湖南が命名したと言われる。
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所在地 

傍示石

承応(1653)徳川幕府によって例幣使料がもうけられた。「例幣使料」とは朝廷が毎年伊勢神宮に勅使を派遣して幣を奉る行事を例幣といい、その費用を確保するための所領である。江戸時代に入ると家康を祀る日光東照宮にも幣を奉るようになった。傍示石は、使料と領地の境界を明らかにするため要所に建てられた。確認済みのものは17ヶ所。
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名称 傍示石
年代 江戸時代前期
銘文抄 (傍示石の背面)「承応二発巳正月十一日」 (表面) 例幣使料境目傍示石也
所在地 木津川市加茂町瓶原
アクセス 木津川恭仁大橋を渡って瓶原地区

▶神社関係

◎恭仁神社

もとは菅原道真を祭った天満宮であったが、大極殿跡の東にあった御霊神社の祭神、早良親王とその布陣を本殿に合祀され昭和40年8月2日恭仁神社と改名された。本殿は文久三年(1863) 8月、春日若宮の社殿を、ここに移建されたもので春日造りの形式をよく伝えている貴重な建物である。神社の配置は、中世以来の伝統ある配置で京都府下では三社のみ。昭和42年府の補助金を得て本殿の屋根が葺き替えられ、また附属建物も一新された。
【 恭仁神社祭時記】
3月上旬:おんだ祭り
・10月第3日曜日: 例祭 恭仁まつり
・11月23日:新嘗祭
・12月30日:大抜
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名称 恭仁神社
年代 江戸時代 文久3年(1863)
所在地 木津川市加茂町西宮ノ東35
アクセス 恭仁宮から西へ徒歩約10分

◎井平尾春日神社

祭神は天津児屋根命(アマツコヤネノミコト)で、末社は稲荷社、八幡社、山神社の三社である。神社本殿内から55枚の古い棟札が見つかり保存されている。春日神社と、裏側(東側)にある、弘法大師伝説の名水二つ井、南西に位置する、大仏殿建立の木材を、  伊賀の国から木津川に流して運ぶ際、笠置で邪魔をしていた大岩を良弁上人が法力によって二つに割り、 その一つが流れ着いたと言う伝承で知られる流岡山、これらを合わせて、平成7年に府が選定している「京都の自然200選」(歴史的自然環境部門)に選ばれている。
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名称 井平尾春日神社
年代 神社の歴史について記録はないが、加茂町内で一番古い室町時代の宝徳2年(1450)の棟札が見つかっている。
所在地 木津川市加茂町井平尾
アクセス JR加茂駅下車奈良交通和束方面行きバス井平尾下車南へ約5分

◎河原恵美須神社

社殿は権現造りの様式をとり入れ、高床式社殿で海の神様の雰囲気がある。元弘元年、後醍醐天皇が笠置山に籠もった時、楠正成の呼びかけで四国徳島から加勢した松浦一党がその後、瓶原に止まり河原の辺りに住居を構えたといわれ、恵美須神社は一党が氏神様として祀ったのが始まりとも言われている。創建の頃はあまり心配はなかったようであるが、徳川時代に入ると度々浸水するようになり、享保21年(1736)に、村人達延千人の努力で御社地を約1.8m築揚げる大仕事をし、再建された。何回も遷宮しているが、天保2年(1831) 8月29日に遷宮したものが現在の社殿と考えられる。神社の建物の一つに能舞台がある。昔は目出度いときや、雨乞い、その他の祈願などにもよく能が上納されたようである。ふだんは訪れる人もほとんどなくひっそりしているが、1月10日の「十日えびす」は今も賑やかに行われている。9月15日は「宮ごもり」といって、氏子の全戸が夜神社に詣で拝殿で神酒を頂く習わしがある。昔は6月23日の神祭には同社の祭神大野の母社に会い給うと称し、神興を舟に乗せ今の大野社の辺りの対岸(エビス岩)に至る「舟みこし」の御渡りが行われていたが、明治30年代よりなくなり、小型の舟(長さ約一間半)とみこしが保存されている。
参照:(京都府相楽郡誌)(黒田家文書)
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名称 河原恵美須神社
年代 鎌倉時代(1244) 天保2年(1831) 6月13日再建
所在地 木津川市加茂町河原
アクセス:恭仁大橋を渡り左折し、西方へ約25分。

◎岡田鴨神社

境内は元明天皇の岡田離宮跡といわれ、旧跡に天満宮が祀られた後、加茂明神を勧請し祀ったといわれます。江戸時代に八幡宮も合祀されています。和銅・天平時代には,現在の木津川は,岡田山の北側を流れていたが、その後木津川が南側を流れるようになり、水害が頻繁になり、岡田鴨神社を旧社地(薮の中)からこの地へ遷されたといわれます。神社は延喜式内の古社に列せられ「日本三代実録」によると、貞観元年岡田鴨神社に従五位を授かりました。桧皮葺の屋根は20年に1回の割りで葺き替えられます。参道の入り口にある道標は、「左いかいせ道」と刻まれていますが、現在の位置から見ると左に進むと船屋から奈良方面に進むことになりますので、元は道の反対側に建っていたのが移動したものであると思われます。道標は、高さ約56cm、幅19.5cmで、左側面に「天保戌年(1838)9月6日」と建立日が刻まれています。
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名称 岡田鴨神社
年代 天平時代
所在地 木津川市加茂町北鴨村47

◎御霊神社

新川にかかる橋を渡り、小高い森に向かって真っ直ぐに石段をのぼると朱塗りの鳥居をもつ神社が静かなたたずまいを見せています。御霊神社は三間社流造の社殿で、一説に奈良の氷室神社の社殿を移してきたとも言われ、鎌倉末期から南北時代の建立と考えられ重要文化財に指定されています。檜皮葺の社殿は前面向拝の柱間に梁を渡し古い形式の蟇股を配しています。主神は崇道天皇ですが、明冶の神社明細帖には素戔鳴命(すさのおのみこと)と記されています。もとは灯明寺を守護する鎮守社でしたが、今は兎並地区の氏神となって残っています。
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名称 御霊神社
年代 南北朝時代
銘文抄
所在地 木津川市加茂町兎並
アクセス JR加茂駅東口から東へ約2㎞

◎勝手神社

万葉集にも歌われた鹿背山の先端、木津川の流れを臨む場所にあります。きれいに掃除された石段を登っていくと山腹の境内に二つの社が建っています。
▶勝手神社(右側):室町時代から続く大野地区の氏神。毎年10月に、神輿に御神体を移し高張提灯や松明を伴って、近くの西明寺へ神幸する例祭が行われています。
・天大日霊女貴名(あまのひるめむきのみこと)、天忍穂根命(あまのおしほねのみこと)、多久幡千々姫尊命(たくはたちちひめのみこと)
▶春日神社(左側):春日神社には、奈良春日若宮・岡田国神社も合祀されています。昔、この地区(大野村)は、たびたび洪水にあい、神社も流されました。岡田神社の跡地と伝えられている木津川河原の竹やぶの中に、「旧蹟地記念碑」が建立されています。
・武甕槌命(たけみかづちのみこと)、斎主命(いつきぬしのみこと)
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名称 勝手神社・春日神社
年代 江戸時代初期
銘文抄
所在地 木津川市加茂町大野
アクセス JR加茂駅から西方へ約1.2 km

◎白山神社

ここは木立に囲まれた山中で昼なお暗く、いかにも神が宿るにふさわしいところである。ここに白山、春日の二社が並び、向かって左が白山神社、右が春日神社である。いづれも1間社春日造り、桧皮葺建物である。社伝によれば、白山神社は岩船寺の伽藍守護神として天平勝宝元年(749)7月20日柿下人丸が創建し、行基が遷宮したとしている。(相楽郡誌)その後春日神社も建立されたが承久三年(1221)の兵火で大半が焼失、室町時代に再建されている。
▶白山神社本殿 (重要文化財):全般的に優美かつ洗練された意匠を示し、蟇股などの細部手法には奈良との類似性が認められるほか、高欄宝珠が嘉吉2年(1442) に建立された岩船寺三重塔と酷似するところより恐らくこの頃に再建されたと考えられる。蟇股は 脚先の形に特色があり室町時代のもの。
▶春日神社(府登録文化財) 祭神 天児屋根命:本社殿は江戸時代の享保12年(1727)に白山神社にならって復古的に造立されたものである。
▶おかげ踊り(府指定民族文化財):江戸時代後半は度重なる洪水、飢饉に見舞われ、やる方なき気持ちを押さえるため、 日常生活からの一時の解放等を願って氏神等に出かけて踊ったり、近村等に踊りに行った。これが「おかげ踊り」であるが、こう云った傾向は江戸末には一旦消えていったが、 明治の初め頃からぼつぼつ復活し、昭和42年(1967)には岩船の白山神社で完全復活をとげ、毎年10月16日に祭礼行事として踊ることになった。
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名称 岩船白山神社 
社格 村社
年代 室町時代
祭神 伊弉册尊(イザナギノミコト)
所在地 加茂町岩船上ノ門
アクセス 岩船寺前バス停すぐ

◎森八幡宮

社殿は3間社流造り、享保年間(1450年頃) 当時としては珍しい切組工法による建造物である。平成10年台風により大破、11年改修されている。祭神は応神天皇(ホムタワケノミコト)・神功皇后(オキナガタラシヒメノミコト) 武内宿禰(コウラタマタレノミコト)の三神。 創建については天平13年(741) 聖武天皇恭仁京遷都の時、石川加美之刀を勅使として宇佐八幡に奉幣しこの地に勧請したと伝えているが詳しくは分らない。祭礼日は、元旦祭・春祭り3月27日・秋祭り10月17日であるが、境内に祀られている恵比須神社の祭礼が1月5日に行われる。 境内には鎌倉末期の線刻毘沙門・不動の優れた石像が祀られている。
⇒他の写真
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名称 森八幡神社 (府指定 文化財環境保全地区)
年代 創建不詳  現社殿 江戸時代
銘文抄
所在地 加茂町森ダラニ田
アクセス 当尾線 下手口バス停より徒歩15分

△岡田神社舊蹟地碑

◎涼み岩

森八幡宮の神が夕涼みをしたと伝えられる巨岩です。長坂橋より20メートル下流の道路したにあります。森八幡宮からこの辺りまでの長坂川は聖域とされていて、弔事は川を越えてはいけないので、南下出地区の墓地は川を挟んで二ヶ所に分れています。

三十八神社


タケミカヅチノカミを祀る。磐座も祀られている。
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所在地 観音寺地区

▶恭仁宮関係

恭仁大橋と歌碑

この橋から、眺める木津川の四季折々に変わる風景は素晴らしく、私たちお勧めの一つです。 初代の橋は、明治34年(1901年)架橋、3月に完成しました。 しかし、明治40年の水害で大破損、翌41年災害復旧工事に着手、翌年竣工、このとき橋脚を改造、五本立てとなりました。 大正2年夏の水害で再び流出し、2代目の橋が大正3年つり橋型の鉄石橋として再建されました。 昭和に入り自動車が通り始めると傷みがひどくなったので、昭和11年に3代目の橋が竣工しました。鉄筋コンクリートの橋でした。 昭和61年に4代目の現在の橋が完成しました。両岸には歌碑が建てられています。両岸には歌碑が建てられています。南の歌碑は百人一首に詠まれた中納言兼輔の「みかのはら わきて流るる泉川 いつみきとてか こいしかるらん。」 北岸の歌碑は万葉集に詠まれている大伴家持の歌 「今造る 久邇の都は山川の さやけき見れば うべしらすらし」です。
⇒歌碑の写真はこちら

恭仁宮跡

天平12年(740)10月、聖武天皇は突如として奈良の都を出て東の地方へ行幸を企てました。当時は疫病や戦乱に見舞われ、社会不安が全国的に高まっていた時代でした。天皇はそのような事態を一新しようと遷都を決意し、それにふさわしい場所を求めて都を後にしたのです。そして、しばらくの彷徨を経て、瓶原の地に至り、ここを新しい都と定めました。これが恭仁京です。宮殿や官公庁など都の主要な建物が造営された瓶原地区は、北に険しい山を背負い南に開けた気候温暖・山紫水明の地で道路や区画が整備されるに従って、貴族や豪族たちが奈良の都から移り住むようになってきました。恭仁京はそれまでの都に比べ規模も小さく、都としての期間も4年に過ぎませんが、この短期間に我が国の政治・文化の上で画期的な政策が幾つか出されました。遷都した翌年の天平13年には、諸国に国分寺・国分尼寺を建立する詔が、さらに その2年後には大仏造立の詔が出されています。さながら天平文化の原点が恭仁京において築かれたという感があります。また同じ年に、土地の私有制度を認めた墾田永年私財法が発布されています。この法律によって公地公民がくずれ、後の荘園制の基盤が形づくられました。たしかに短命ではありましたが、恭仁京はこのように日本の歴史上きわめて重要な位置を占めていたのです。
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◎山城国分寺跡

聖武天皇の勅願により恭仁京遷都が発表されて間もない天平13年(741)初の頃、正しくは光明四天王護国寺という。

例弊小字中切一帯と伝える。現在恭仁小学校の北側には東西に伸びた長い土壇があって国分寺の金堂址といわれ、同校の東、旧字塔1本と称する田畑の中には15個の大きな礎石があり国分寺の東塔址と伝えられる。礎石はいずれも花崗岩製で、中央に円形の作り出しを設け柄(ほぞ)を刻み出した天平様式のもので、中には横に矩形の狭間石を作り出したものも見られる。寺域は3町(330m)周囲を土塀でめぐらし、南の正面にあたる南大門を入ると金堂、右手に七重塔があった、と推定されている。

出土した遺瓦によって平安時代より鎌倉時代にわたって存続し堂塔の修理などが行われたことだけが知られる。もとは東大寺に属したが後に興福寺末となり、現在は真言宗智山派に属する国分寺の名を継いだ小堂がわずかに残っているにすぎない。

◎甕原離宮・山城国分尼寺跡

加茂では恭仁京造営以前から離宮が営まれ、しばしば天皇や太上天皇の行幸があった。所在地は不明、木津川市法花寺野西ノ平を昭和2年発掘調査されたが、離宮跡の証明はできていない。離宮への行幸は元明と聖武の時代に限られていた。瓶原の地が風光明媚であったことが度々の行幸を見た理由と考えられる。

「法花寺野」の地名から山城国分尼寺に比定されるが定かではない。大正14年の工事中、多くの瓦が出土した。府道47号線沿いに三宅安兵衛碑が建てられている。
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名称 甕原離宮国分尼寺遺阯参考地碑
年代 不詳
所在地 木津川市法花寺野西ノ平

鋳銭司跡

始めて鋳銭司が設けられ、和同開珎が鋳造されたところである。銭司の西方にある流岡山およびその東に連なる湾漂山から銭司に続く一連の山を岡田銅山と称したようであり、そこから原料の銅を採掘したようである。しかし、貧弱な銅鉱であったためすぐ枯渇してしまい必要量を供給しえなかった。前後70年にわたって鋳銭司がおかれていた。また、金鋳山、金山、山金山、和銅、鍛冶山などという鋳銭に関係深い地名が残っている。

【主な出土品】
・銅銭 10数枚
・坩堝(ルツボ)‥銅を溶かす器具
・鞴口片‥‥送風施設の先端
・銅滓‥‥銅を溶かした残り滓

【鋳銭司設置の理由】
・良質の粘土が周辺の杣尾にあった。 木津川の水運の便があった。
・技術者(鋳物師)である帰化人や狛人が近くに住んでいた。
・燃料が近くの山にあった。 小規模であったが銅鉱が近くにあった。
・地理的条件があった。(各地の鋳銭場の統一的地位にあった)

【鋳銭された貨幣】
和同開珎、万年通宝、 神功海宝、隆平永宝、 (皇朝十二銭のうち四種)
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名称 鋳銭司跡
年代 和銅元年(708年)
所在地 木津川市加茂町銭司
アクセス 銭司バス停から東へ100m

恭仁橋碑


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所在地 木津川市加茂町瓶原

▶古墳

◎前椚古墳群

加茂町内の古墳群中、最大規模のもので後期古墳に属する5基が点在していた。現在は道路拡張のため1基 が失われ4基を遺している。椚坂旧道と新道(バス道路)とに囲まれた下方の山中にある。
1号墳は旧道入り口のすぐ左上にあり、石組の一部が露出しているが頂部の石は無く陥没している。2号墳は1号墳を左に見て椚坂旧道を100㍍ほど登り坂を進み、右手の山中に入り林の中を80㍍程のぼ り切った所を右に50㍍程進むと眼下に府道が見える場所に着く、そこが2号墳の頂部で入り口は府道側 にある。昭和57年に発掘調査され現状保存されている貴重な古墳である。 直径20㍍の円墳で横穴式石室をもっていて、内部の石組もほとんど破壊されず石室内部へ入って 観察できる。 石室からは人骨をはじめ土器・金環・管玉刀子など多量の遺物が出土している。3、4号墳は付近の小丘の頂部に破壊された蓋石などが遺され、その位置を特定することができる。 5号墳は道路工事で破壊されたといわれる。 南古墳は谷を隔てた南の丘の林中にあると伝えられるが立ち入ることができない。
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名称 前椚古墳群 (1~5号墳・南古墳)
年代 古墳時代後期
銘文抄
所在地 加茂町尻枝前椚
アクセス 南加茂台一丁目バス停より徒歩

◎塚穴古墳群

1号墳は東西26m、南北20mあり、方墳と考えられている。古墳内部は、両袖式の横穴式石室が確認されている。石室規模は、現存長 4.8m、玄室長 3.3m、玄室幅 1.95〜2.4m、羨道幅 1.35m。この古墳の存在は早くから知られ、明治39年(1906)には、岩井武俊氏により全国に紹介されている。2号墳は保存状態が悪いが、石室入口の露出石材が確認できる。
(発掘調査 現地説明会資料 2022-9.11 同志社大学考古学研究室 による)

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(ははそ)の杜

周囲100m、東面する前方後円墳。今は前方部が畑地となり後円部のみが僅かに形をとどめている。神宿る神聖な場所といわれ「柞(ははそ)の杜」、「柞の森」とよばれている。古くは「大墓」とよばれ、武埴安彦を葬ったところと伝えられている。 (写真は2枚からの合成)
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名称 柞の杜
所在地 木津川市加茂町西山字城垣外

△西椚窯跡


解説版が住宅の石垣に埋め込まれています。
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所在地 南加茂台

木津川六か浜

  木津川六か浜とは、近世において木津川水運の拠点となった六つの浜のことであり、笠置、加茂、瓶原(みかのはら)、木津、吐師(はぜ)、一口(いもあらい)を指す。

1.笠置浜

.【加茂浜】

加茂浜の相撲場のあった付近。(現在、川岸は竹が茂っていて見ることができない。向こうに恭仁大橋が見える。)

.【瓶原浜】

恭仁大橋から見た瓶原川岸。(対岸が加茂浜のあった船屋にあたる。)

井平尾の和束川との合流地点の風景

河原恵美須手前、勝手神社対岸の川岸(瓶原西浜に当たるか?)

.【木津浜】

.【吐師浜】

現在の吐師の風景。(かつての吐師浜を想起させるものは無い。)

.【一口浜】

巨椋池排水機場よりの景色 (向いは宇治川と京都競馬場)

江戸時代の一口浜の風景イメージ
(巨椋池排水機場管理協議会「巨椋池歴史絵巻年表」より

淀川渡船場碑「是東一口村安養寺」(三宅安兵衛碑)

巨椋池の東一口にあった大庄屋の旧山田家住宅

▶角力関係

  以下は加茂地域にある角力力士の墓碑等をまとめたもので、現在17項目(14墓碑、2まわし、1神社板絵)を収録。墓碑は、最も古いものが文政9年、最も新しいものが昭和54年で、加茂地区が最も多く7基(但し、内1基は「当尾」と記す)、瓶原地区が5基、当尾地区が2基となっている。

  ※本項目は編成途中のものです。墓誌銘等の読み方や誤読、追加すべき情報などありましたら、「ふるさと案内・かも」までご連絡、ご教示ください。

木津川河川敷の相撲取り場跡

 往時、加茂町船屋地区に接する木津川河川敷では相撲の興行がしばしば行われていた。今は岸辺に竹が茂って川面は見通しにくいが、当時観客は桜(「船屋の三本桜」と呼ばれたという。今は2本のみ残る)の木陰のある川堤に座って川風に当りながら観戦したことであろう。向こうに恭仁大橋(4代目。初代は明治34年に完成)が見える。この場所は、昔より「木津川六か浜」の一つである「加茂浜」の渡しのあった水運の要所でもあり、商業的にも非常な人で賑わっていたことであろう。

【瓶原】地区

◎男山(?)佐助(河原 西念寺 明治26 (1893))

・西念寺:瓶原河原 橋ノ本
・男山(? mの下に一)佐助  (「男山」は井平尾力士まわしのさがりに記述あり)
・銘「明治廿六年十月建之」(1893)
⇒銘文等の写真を見る

◎泉川宗(?)士(河原 西念寺)

・「泉川□(宗?)士碑」

◎瓶原佐兵衛(井平尾 東福寺 明治17 (1884))

・井平尾 東福寺
・「瓶原佐兵衛  門弟中」
・銘「明治十七年申十二月吉日建之

⇒銘文等の写真を見る

◎瓶原松之助(井平尾 東福寺)

・井平尾 東福寺
・「瓶原松之助

◎瓶原荘(井平尾 東福寺 文政9 (1826))

・井平尾 東福寺
・「瓶原荘治  門弟中」
・銘「文政九丙戌年月上旬建之
・現時点(R5.6)で分かる範囲で最も古いもの

⇒銘文等の写真を見る

◎井平尾力士の化粧まわし

・力士 村井新次郎氏の化粧まわし。さがりには「男山内 瓶の原村」と書かれている。現世代の祖父の代のものという。瓶原の字の間にある蔦紋は、村井家の家紋。

【加茂】地区

◎千代ケ嶽惣四郎山上墓地 天保13 (1842))

・山上墓地
・「角力頭取 千代ケ嶽惣四郎塚 門弟中
・銘「天保十三年九月廿九日

⇒銘文等の写真を見る

◎鴨関弥右衛門(西光寺墓地)

・「頭取 鴨関弥右衛門 門弟中」

◎岩田治三郎(西光寺墓地 昭和3 (1928))

西光寺墓地
・「相撲頭取 岩田治三郎 加茂當尾 門弟中」
・銘「昭和三年九月建之」

⇒銘文等の写真を見る

◎山分(?)長治郎(西光寺墓地 明治32 (1899))

・西光寺墓地
・「角力頭取 山分(?)長治郎墓 門弟中」
・銘「明治三十二年」

⇒銘文等の写真を見る

◎竹田川治郎造(西光寺墓地 昭和13 (1938)

・「角力頭取 竹田川治郎造 相撲協会」
・「昭和十三年一月」

⇒銘文等の写真を見る

◎加古川十九八(西光寺墓地)

・「上に〇」の紋
・「加古川十九八位(?) 門弟中」

◎木津川弥一郎(小谷下墓地 昭和54 (1979))

・小谷下墓地
・「角力頭取 木津川弥一郎之墓」
・銘「昭和二十八年十一月亡 俗名弥一郎 行年七十二才 昭和五十四年十月建之 相撲協会 亡弥次郎」

⇒銘文等の写真を見る

若緑関の化粧まわし

・加茂船屋の福本家に伝わる化粧まわし。現世代の祖父の代のものという。
・化粧まわしに「若緑」とある。
(資料提供 岩田孝一氏)

力士の写真を見る

◎勝手神社本殿の板絵(大野宮ノ谷)

・向かって右の板絵には腕を下した力士、左には腕を上げた力士が描かれる。勝手は入り口を意味するが、その字句から勝負事の神として信仰されたようである。

当尾地区

◎大風軒受雲斎ミロクの辻北大畑アヤゴ 昭和9 (1934年)

・ミロクの辻北大畑アヤゴ墓地
・「謝恩碑 大風軒受(?)雲斎(?)
・「昭和九年九月建之」
・基石銘「城和組合」
・力士碑である確証はないが、千日墓地にある碑に関する伝承がやはり「大風軒」に関するものであるため、関連が推測される。
・本碑に向かって右隣に薬草名の彫られた小碑があるが、本碑との関係は不明。

朝の森(?)文吉(千日墓地)

・「相撲 頭取/朝の森(?)文吉碑」
・基石の銘「有志者」⇒写真
・本碑に関し、当尾の松岡家に伝わる話として、明治前江戸時代末期頃に、しこ名が「大風軒(たいふうけん)」という力士がいたとのこと。その名は屋号の大風(おおかぜ)からきている。(注:ミロクの辻の「大風軒受雲斎」碑 参照)本碑は岩船村だった頃の名士が建てた記念碑という。なお、しこ名の看板が松岡家玄関の土間に飾られている。⇒写真

▶水運・水利関係

◎船屋地区

船屋は、木津川六か浜 (一口(いもあらい)、吐師(はぜ)、木津、加茂、瓶原(みかのはら)、笠置) のひとつで、舟運の基地として古くから賑わい江戸期になって船屋が形成されました。奈良と伊賀を結ぶ伊賀街道、奈良と近江方面を結ぶ信楽街道の中継点・宿場町としても重要な位置を占めていたところです。

【現存する懐かしい店】
▶日の出旅館‥元川口屋 (明治建)
服部印刷‥‥現在も営業中(明治末創業)
堀口家‥‥民家 (明治建)
兎本家‥‥元庄屋(江戸・文久2年建)
村田鍛冶屋‥‥休業中(明治末創業)
兎本家‥‥元餅屋(明治21年建)
中岡家‥‥元指物屋(明治初年)
浅田肥料‥‥営業中(明治32年建)
吉本家‥‥郵便局(明治24年建)
日吉屋‥‥元造り酒屋(明治21年建)
宮本家‥‥元島医院(大正4年)
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名称 船屋
年代 江戸末期ー明治ー大正
銘文抄
所在地 木津川市加茂町里・北船屋・兎並船屋
アクセス JR加茂駅西口から木津川左岸にかけてL字型の通り

大井手用水

大井手は、鎌倉時代中期に海住山寺の覚真(慈心上人)が、和束郷石寺の和束川に水源を求め、川に井出枕と呼ばれる堰堤を設け、そこから幅一見(1.81m)、勾配約1250分の1、水深1尺(0.3m)の水路を導き、当時農業水利に恵まれず困窮した農家が多かったとされる瓶原郷を救うために造られた大農業水路をいう。その延長は実に6,755mに及んでおり、今もなお瓶原郷の生命線として郷を潤している。
大井手用水の和束川からの取水元を井出枕と呼び、その傍らの龍王岩には水をつかさどる八大龍王が祭られてい。毎年1月末から2月初旬の「みずのえ」「みずのと」の水に関係する日を選んでこの場所で「井出祭り」を行い、その年の雨の恵みと水路の安全・五穀豊穣を祈念している。(解説板より)
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名称:大井手用水
年代:鎌倉時代
所在地:加茂町瓶原地区

⇒その他の写真

デレーケ堰堤

瓶原地区の大井谷川周辺に3ヶ所砂防堰堤がある。明治11年~20年デ・レーケが不動川堰堤工事をした際、地元の小方亀次郎の指導により設置したものであり、加茂町ではこれをデ・レーケ堰堤と呼んでいる。縦40cm 横50cm程度の花崗岩の切石を横に並べて積み上げる工法で高低差は10mある。昭和28年の28山城大水害で上流、下流の2ヶ所は大破し新しいコンクリートの堰堤に生まれ変わったが中流域に設けられた石積みの堰堤は表層が若干破損したが原型を保っている。また、植林で最も成果 を収めたのは、山城町にある不動川流域のカバタ山だ。ヨハネ・デ・レーケは、1842年オランダで生まれ、土木技師として1873年(明治6年)明治政府に招かれて来日し、大蔵省土木寮のお雇い外国人になった。在職29年の後帰国、これに先立ちわが国政府より、勲二等が贈られた。

北山マンボ

北山隧道路とも言われる。加茂北部の奥畑地区は谷浅く急斜面で農業用水に苦労していました。そこで、奥畑生まれの風呂本儀助(当時31歳)の発想で明治10年12月10日、村長吉本忠治郎と助役風呂本武右ェ門が、29戸に呼びかけ工事が始まりました。延長145.9mの水路が明治12年4月14日、無事故で完成しました。神童寺村に流れ去る水を奥畑の農業用水として利用するようになりました。マンボの口には、陽刻の石文が彫られています。

▶鉄道遺構

◎大仏鉄道

明治31年に加茂~大仏駅・翌年に奈良駅までの全9.9km間で開通しました。当時は、大仏参詣の人たちで賑わったそうですが、途中の黒髪山付近の勾配がきつく、外国製最新式の蒸気機関車も運転には苦労したようです。勾配に差し掛かると、乗客は全員降りて列車を押し、坂を登りきると再び乗り込んだ、という話も残っています。その後、加茂~奈良間に新しいルートが開かれ、わずか9年余りで廃止されました。大仏線遺構は、加茂町観音寺地区に3ヶ所(新旧橋台・小橋台・南橋台)、木津町に2ヶ所あります(梶ヶ谷トンネル・赤橋)。保存状態もよく周囲の田園風景とも調和しています。
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名称 大仏鉄道
年代 明治時代
銘文抄
所在地 木津川市加茂町観音寺、木津町
アクセス JR加茂駅西口からランプ小屋~SL~架橋跡

◎ランプ小屋

文明開化の象徴である赤レンガで造られています。加茂駅開業に合わせて明治30年に建てられました。汽車の前照灯、尾灯、車内灯などの保管庫でした。加茂駅西口下車、すぐ南側にあります。

◎C57型SL

関西線横、加茂小グランド横に展示されている蒸気機関車「C57 56」はスタイルもよく上品な女の人のような感じがすることから貴婦人の愛称がつけられました。急行列車を引いて速く走るために大きな車輪を3輪つけています。昭和34年4月、当時の皇太子殿下(現上皇陛下) がご結婚報告のため伊勢神宮、畝傍御陵参拝の折お召列車として使われた機関車です。昭和47年4月に旧大仏線の軌道を使って、ここに移動保存されています。
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名称 蒸気機関車 C5756
年代 昭和30年代
銘文抄
所在地 木津川市立加茂小学校校庭西側道 JR関西本線沿い
アクセス JR加茂駅から加茂小学校へ約10分

▶その他

◎椚(くぬぎ)坂の石畳の道

昔より昭和30年代まで、当尾の人びとが加茂の町へ行くのに使っていた古道です。草で埋もれていたのを平成14年に「ふるさと案内・かも」が掘り出して整備しました。

◎ズンド坊の杖

森八幡宮の裏山30メートルほど登ったところにあります。民話として伝わるずんど坊と言う力持ちが杖にしていた石で、約2メートルの細長い石です。

◎吊り店

昭和37年(1962)頃、岩船寺近くの農家が自家野菜を家の前に並べて観光客に販売したのが始まりで、同じ頃西小の浄瑠璃寺門前近くでも無人販売の店が出された。買い手を信用した村人の人情が喜ばれ一躍有名になり、岩船寺から浄瑠璃寺への石仏の道に無人販売の吊り店が多数設置された。採り立ての新鮮な野菜や、手作りの漬物、揚げたてのおかき等が観光地の名物となり、近郊の人達までも買い物客として訪れるようになった。しかし20年位前から、無人につけこんだ盗難が増加し、石仏の道では成り立たなくなり、岩船寺や浄瑠璃寺近くで、家の前や店番つきの吊り店だけが販売を続けている。当尾中北部の辻や尻枝にも、平成の初めころから散歩客を相手に無人の吊り店が出され今も続いている。

◎流岡山

恭仁大橋の東北木津川沿いにある丘を示します。『続日本記』に記される『岡田銅山』とは、この流岡山およびその東につづく湾漂山をも広く称したものとみられ、山中には今なお銅鉱を有します。山紫水明の景観を呈していますが、古来、京、大和から伊賀、伊勢方面を結ぶ街道と、和束、信楽方面へ抜ける街道の分岐点としても栄えました。
『山州名跡志』巻16は、この山はもとは木津川の上流、笠置山の麓にあり、南都大仏殿建立にあたってその用材を伊賀国(今の三重県)より筏にして流そうとしたが、 この岩山にせかれて通ることが出来なかった。そこで良弁上人が笠置山に立て籠って千手の秘法を修したところ、一天にわかにかき曇り、雷鳴はとどろきわたって岩を打ち砕いてしまったので、ようやく材木を流すことができた。その砕けた岩山の一つは瓶原に流れとどまって流れ岡となりもう一つは、 綴喜郡(京田辺市)の飯岡となった。と伝えています。

◎恭仁小学校

建築当初は恭仁京大極殿跡に建てられていた。昭和9年室戸台風で大変な被害を蒙った。昭和11年に良質な木材を利用して全校舎を改築し、現在でも十分その役割を果たしている。今では数少ない貴重な木造校舎である。
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名称 木津川市立恭仁小学校
年代 明治6年新築  明治33年現地に移築  昭和11年改築
所在地 木津川市加茂町例幣
アクセス 恭仁京大極殿南側

◎残念石

江戸時代、第3代将軍家光の時代に大阪城修築用に切り出された巨石が、赤田川河口付近に、今も残されています。昭和50年の発見時には、約70個もあったそうです。大半は2.2m~2.7mの直方体の花崗岩で、大きさ、日付などが刻印されています。この地方の藩主であった藤堂高虎の指図で行われたのですが、大阪城へ行けなかった石、ということで「残念石」と呼ぶようになったそうです。他にも加茂支所、常念寺に置かれています。
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名称 残念石
年代 江戸時代 第3代将軍家光の頃
銘文抄
所在地 木津川市加茂町 大野
アクセス JR加茂駅西口から西へ約2㎞

二ツ井

二ツ井は、井平尾の信楽街道と笠置への伊賀街道との分れ道の下、和束川沿いにあります。井戸は南北二ヶ所にあって 北を「樫ノ井」、南を「柏ノ井」と呼びます。俗には、「夫婦井戸」または「菜切り井戸」とも呼ばれ、当地方屈指の名水と言われ今なお清冷な井水を湧き出しています。井戸の周辺には村井、井上、井久保などの井戸に関わりのある姓が多く、住民と井戸の深い関りを物語っています。柏の井の傍らにある「菜切り石」には、弘法大師が菜を切ったとの言い伝えがあります。村人が使った包丁の刃の跡があります。
⇒その他の写真
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名称 二つ井
年代 774年~835年
銘文抄 弘法大師
所在地 木津川市加茂町井平尾岸の上
アクセス 井平尾バス停東へ5分

朱雀の井戸

めずらしい六角形の井戸。この辺りは恭仁京の朱雀に(南)にあたり、ここから北へ伸びる道がかつての朱雀大路。また、中世、織田信長の時代の頃、この地の土豪集団の一つである朱雀氏の屋敷跡ともいわれている。

◎蛇吉川

海住山寺ふもと(例幣地区)から発し、流れ岡山の西裾、岡崎野の東を貫流し、木津川右岸へと流れる川で、大雨のたびに氾濫し蛇の様に川筋を変えた。この川を治めるために蛇吉川の上流にある仏生寺地区の「四宮神社」には、蛇の頭が、下流の岡崎地区にある「春日神社」には、蛇の尻尾がまつられていたと伝えられている。地区にはこの川と蛇に係わる昔話が伝えられており、蛇吉川の由来と思われる。

△御藪

藤堂高虎によって作られたという防風林。残念石の近く。サギの営巣地がある。
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所在地 木津川河畔、赤の樋門近く。