【加茂の近世】 Esprit of Kamo
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【加茂の近世】 Esprit of Kamo
▶加茂が藤堂高虎の領地となる
・藤堂高虎、伊勢津藩の初代藩主。黒田孝高、加藤清正と並び、「築城三名人」の一人。晩年、元和5年(1619年)に和歌山城に徳川頼宣が移封されてくると領地の田丸五万石(三重県度会郡玉城町)は紀州藩領となり、藤堂家には替地として大和国と山城国に5万石が与えられた。
▶殘念石が大野山より切り出された
・二代将軍徳川秀忠は、元和5年(1619)、藤堂高虎を大坂城普請総指図役に任じ、高虎自身加茂の常念寺に滞在して、大坂城石垣用の石を大野山から切り出す指揮を取った。殘念石は大坂城まで運ばれず、備蓄石として加茂に取り置かれたものであり、昭和50年(1975)、木津川支流赤田川の河床より護岸工事中に見つかった。
▶瓶原が例幣使料地となる
明暦元年(1655)に法花寺野村を除いて瓶原は「禁中様」すなわち朝廷に関する料地となる。承応(1653)徳川幕府によって例幣使料がもうけられた。「例幣使料」とは朝廷が毎年伊勢神宮に勅使を派遣して幣を奉る行事を例幣といい、その費用を確保するための所領である。 江戸時代に入ると家康を祀る日光東照宮にも幣を奉るようになった。つまり、朝廷は正保3年(1646)から日光東照宮に例幣使(勅使)を派遣するようになった。傍示石は、使料と領地の境界を明らかにするため瓶原の要所に建てられた。徳川家康の霊柩が日光山に改葬され東照宮が造営されると徳川幕府は朝廷に幣帛の奉納を要求。
▶加茂と瓶原、木津川六ケ浜の二つとして賑わう
・木津川六ケ浜(一口(いもあらい)、土師(はぜ)、木津、加茂、瓶原、笠置)は、江戸時代、17〜18世紀に制度的にも水運拠点として確立された。
▶芭蕉、加茂船屋の縁者宅に一宿する
芭蕉(1644-1694)は51歳の時、伊賀から滋賀県膳所に旅し、その途中加茂船屋の平兵衛宅に一宿した。加茂は芭蕉が愛した女性ともいわれる寿貞尼の郷里と言われ、この時点には江戸に住まい、芭蕉庵で病の療養している。芭蕉は、膳所の曲水亭から江戸深川の村松猪兵衛(彼も加茂の生まれで、寿貞尼の甥とも言われており、すでに江戸に移住しており、芭蕉庵に出入りしている)に宛て、以下の書簡を出している。
「當月十六日加茂へ参平兵え(衛) に一宿、御袋様・源三殿・あねごなどへ遭申、御袋御無事に御入候。され共四年已前よりよほどとしも御寄、耳も遠く御成候。あねごとふたり貴様事のみくどくかへすがへす遭申度よし被レ申、難儀いたし候。... 壬(閏) 五月廿一日 はせを 猪兵へ(衛)様」
元禄7年(1694) 閏5月21日
・元禄7年6月2日 江戸深川の芭蕉庵において寿貞尼死去。
・元禄7年6月8日 芭蕉、京都嵯峨野の落柿舎にて寿貞尼の死を知る。
同日、村松猪兵衛宛書簡「寿貞無仕合もの、まさ・おふう(寿貞尼の二子) 同じく不仕合、とかく難二申盡一候。... 何事も何事も夢まぼろしの世界、一言理くつは無レ之候。」
・元禄7年7月15日、「数ならぬ 身とな思ひそ 玉祭」伊賀上野の松尾家菩提寺、愛染院における盂蘭盆会(玉祭=魂祭)の際の句。
▶伊能敬忠、加茂に立ち寄る
伊能忠敬 69歳、第8次測量行において、文化11年(1814) 4月28日、前日の木津本陣から笠置へと向かう途中(いわゆる「山田越え」)、加茂の船屋(大庄屋 梶田順蔵)にて昼休みを取った。